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ポール・グレアム「変人の力」

ポール・グレアム「変人の力」
2006年6月
(このエッセイはUsenix 2006とRailsconf2006を元にしています)
数年前、私は友達のTrevorとアップル社が起業したガレージを見に行った。そこに立ったとき、彼は子供時代をサスカッチワンで過ごしたものとして、ガレージで働くほどの情熱の深さには驚嘆した、と友人は言った。「めっちゃ寒かったろうな!」
それはカリフォルニア州の隠れた長所の1つだ。温暖な気候ということは、そこに多くの余分な空間があるということだ。寒いところではその余地はつみ取られてしまう。
屋内と屋外にはっきりとした境界が引かれ、組織、親、妻、あるいは少なくとも自分が正式に許可を与えたプロジェクトだけが、正式に屋内の空間を与えられる。すると新しいアイデアを生み出すのに、より多くのエネルギーが必要となってしまう。「ちょっと試してみる」ことができず、正当化する必要が出てくるんだ。
1938年のヒューレット・パッカード、1976年のアップル、1998年のグーグルなど、シリコン・バレーの有名企業の何社かは、ガレージからはじまった。アップルの場合、ガレージの話はちょっとした都市伝説だ。ウォズは、ガレージでやったのはコンピューターをちょっと組み立てただけで、Apple IとIIの実際のデザインはすべて自分のアパートか、ヒューレット・パッカードの自分のキュービクルの中でやったと述べている。[1]
この話はAppleの広報担当にさえ余談に過ぎる話だったようだ。社会的な基準でも、ジョブズとウォズニアックもまた、変人だった。彼らが頭がいいのは明らかだったが、履歴書の上でも見栄えが良かったはずはない。当時の彼らは大学を中退していて、二人の在学期間には約3年の差があり、しかもヒッピーだった。それまでの彼らのビジネス経験は、電話システムにハックを仕掛ける「blue box」の製造だった。これは違法かつ利益も上がらないという珍しい商売だった。


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アウトサイダー
今、シリコン・バレーのガレージで起業する起業家は、屋根裏の詩人とか、アトリエを暖めることができず室内でベレー帽をかぶる画家と同様の、高尚な伝統を感じるだろう。でも1976年には、それほどクールじゃなかった。
世界は、コンピューター会社の起業を、作家や画家と同じとは見なさなかった。でもその無理解が、それほど長い間続いたわけじゃない。たったその後数年で、ハードウェアのコストは劇的に下がり、アウトサイダーも参戦できるようになった。
1976年は、創立者でさえ、ガレージを仕事場にする会社を軽蔑していた。
ある程度のお金がたまった時、ジョブズが最初にしたのは、事務所を借りることだった。彼はアップルをホンモノの会社に見せたかったんだ。
彼らは、ホンモノの会社がほとんど持っていないものを既に持っていた。驚くほどよく設計された製品だ。あなたは、彼らがもっと自信を持っていたんじゃないかと思うだろう。でも私は多くのベンチャー企業家と話したけど、いつもそのようなものだ。世界を一変させるようなものを作っているのに、「まともな名刺を持ってない」とか、ごくつまらないことを心配していた。
それが私が究明したい謎だ。すばらしく新しい物を、変人が作ることがしばしばある。なのに彼らはみんなに軽蔑される。そしてそればかりか、発見した人は自分も含むみんなに軽蔑される。
新しいものは変人が作る、というのは昔から言われていることだが、私はそのしくみを調べたい。なぜすばらしいアイデアは、変人がもたらすんだろうか。どんなタイプのアイデアなんだろうか? そのプロセスを促すために何かできることはないのだろうか?
インサイダー
非常に多くの良いアイデアが思いもよらないところから現れる理由の一つは、単に良いアイデアが沢山あると言うことだ。インサイダーが何を意味するにせよ、インサイダーよりさらに多くのアウトサイダーがいなければならない。アウトサイダーの数が巨大ならば、人口からみたらほとんど誰もやっていないようでも、多くのアイデアがアウトサイダーによってもたらされるかのようにいつも見えるだろう。でも私は、それ以上のことがあると思う。インサイダーであることには現実のデメリットがあって、ある種の仕事では、それらはメリットを上回ってしまう。
たとえば、もし誰かに公式な大アメリカ小説を書くよう依頼すると政府が決めたら、何が起きるか想像してほしい。まず誰を選ぶかで大きなイデオロギー的言い争いが起きるだろう。最高の作家の大多数は、ある派閥か、その正反対の派閥を怒らせるために除かれる。残った作家のうち賢い者はそんな仕事を断り、ゆがんだ野心を持つ者だけが残る。委員会は過去の経歴を見て、最高の一人を選ぶだろう。すなわち、最高の仕事をすでにしてしまった人だ。委員会はキャリアの頂点にある人 -つまり、彼の最高の仕事は過去にある- を選び、その本が肯定的な意味でアメリカ人の強さや多様性を表すにはどうしたらよいかなどなどの、細々とした無料のアドバイスとともにそのプロジェクトを授けるだろう。
そして不運な作家は、両肩に大きな期待の重みを乗せながら仕事をすべく座る事になるだろう。そんな公的な仕事でヘマをしたくないので、安全策をとる。この本は尊敬を集めた方がよいので、確実に尊敬されるために悲劇にする。みんなを笑わせなければならないのに、人を殺してしまったら、読者はシリアスに捉えざるを得ないと感じる。ご存じのとおり、アメリカに悲劇を加えたら南北戦争になるわけで、したがって小説はそうなる。南北戦争は奴隷制に関することだという標準的なマンガバージョンに沿った方がよい。でなければ読者は戸惑うだろう。もちろん強さと多様性をたっぷり描写する。12年後に完成する時には、本は900ページの既にある有名な小説、乱暴に言えば「風と共に去りぬ」と「ルーツ」を混ぜあわせたものとなる。大作だし名声もあるから、トークショーのホストの自伝で吹き飛ばされてはかなく忘れ去られるまでは、数ヶ月の間ベストセラーにするだろう。本は映画化され、仲間内でその映画を「ミリ・バニリ」や「バトルフィールド・アース」のような偽物の典型とするような、より意地悪なタイプの批評家以外には、すぐに忘れ去られるだろう。
ちょっとたとえ話でアツくなりすぎた。でもまあ、だいたいそんな結果になると思わない? 政府は小説ビジネスに参入するほどバカじゃない。でも核廃棄物、航空母艦、政権交代のように、自然な独占がある分野では、今のたとえ話と似たような、そしてたいして成功していないプロジェクトが、山ほど見つかるだろう。
このちょっとした思考実験は、インサイダー・プロジェクトの不都合をわずかながら示唆する。間違った人選、手の広げすぎ、臆病、真面目ぶりっこ、期待の重圧、既得権、愚かな大衆。でもたぶん最も危険なのは、そのような仕事は、楽しみよりも義務になりがちだってことだ。
テスト
世界にアウトサイダーとインサイダーがいるということは、彼らを区別する、ある種のテストがあることを意味する。そして多くのエリート選抜テストの問題は、合格に2つの方法があるってことだ。つまり、テストが測定するものに秀でるか、テストそのもののハックに上手くなるかだ。
だからこのテの問題に関しては、最初に「そのテストはどれくらい正直なの?」と問うといい。この質問の答えによって、アウトサイダーが何を意味するかがはっきりするからだ。この質問は、あなたが自分らしくあるために正式なルートを通る価値があるかどうかに関係なく、権威に反抗するときに、自分の才能をどの程度信じればいいか、また、その分野でどうしても働きたいかどうかを教えてくれるだろう。
テストは、少なくとも品質に一貫した基準があり、またテストを実施する人々がその完全性に関心を持っているようなテストは、ハックが一番難しい。たとえばハードサイエンスの博士課程の入学試験はかなり公正だ。教授は、大学院生として認めれば誰でも入学を許可できる。したがって彼らは、よい学生を選ぼうと一生懸命だ。また彼らは、そうするためのデータもたくさん持っている。大学入試の合格のほうが、はるかにハックしやすい。
ある分野が一貫した標準を持っているかどうかを示す1つの方法は、重要な実務家と、大学で教える人々がどの程度共通しているかだ。一方の端は数学や物理学のように、教師がほぼすべて最良の実務家となる分野だ。中間は、医学、法律、歴史、建築、コンピュータ科学、その他たくさん。最低はビジネス、文学、視覚芸術といった、教師と主な実務家がほとんど共通していない分野。この分野は「できない者が教える」といった言葉がぴったりだ。
ちなみにこの基準は、大学在学中に何を研究するか決めるのに役立つかもしれない。私が大学にいたころは、「いちばん興味を持っていることならなんでも研究しろ」というのがルールだと思っていた。でも振り返ってみると、非常に興味を持っていることを下手な人から学ぶより、適度に興味を持っていることを何かに卓越した人と学ぶほうが、良かったような気がする。
あなたがアウトサイダーだと、どれくらい心配する必要があるかは、インサイダーの質に左右される。あなたがアマチュア数学者で、有名でよく知られている問題を解決したと思ったら、家に戻って再チェックしたほうがいい。私が大学院にいたころ、数理学部の友達は、フェルマーの最終定理の証明といったものを送りつける人々に返事を出す仕事を割り当てられていた。彼はそれを最先端の成果とはみなさず、むしろ人生相談と考えていた。一方、あなたの書いた内容に英語の教授が興味を持たなくても、必ずしも問題ではない。
逆テスト
エリートの選抜法がどうしようもなく腐敗している分野では、ほとんどの良い人々はアウトサイダーになる。たとえば芸術では、「貧乏で理解されない天才」というイメージは、偉大な芸術家にはそういう人もいるよね、という程度に留まらない。むしろそれこそが偉大な芸術家の標準的なイメージだ。そのイメージが正確だとは言わないが、そのイメージがどれくらい長く続いているかはわかるだろう。数学や医学にそこまで強固なイメージはない。[2]
あまりに腐敗が進んでいると、テストは間違っている人だけが適応できるような人を選択する逆テストと化す。高校生活での人気度はそんなテストのようだ。大人の社会でも似たようなテストがたくさんある。たとえば通常の大企業で出世するためには、思慮深い人ならまずしないような政治的かけひきへの配慮が必要だ。[3] ビル・ゲイツのような人間は、自分がボスになって会社を成長させることはできるだろう。でもゲイツがGM社で出世できるだけの忍耐力を持っているとは想像しにくい。もしかしたらマイクロソフト社でさえ我慢できないかもね。
そう考えるのはすこし奇妙に思えるかも知れない。というのも「蝿の王」的な学校や官僚的な会社は、どちらもデフォルトだからだ。たぶん多くの人はそのような場所を次から次へと移動して一生を終えるから、世界中がそんなやり方で動いているわけじゃない、とは決して思わないんだ。
私はそれは大企業がベンチャー企業に何度も不意打ちを喰らう理由の1つだと思う。大企業にいる人はある大規模な、間違った特質を測定するテスト環境の中にずっぽり漬かって生きている、ということに気づかない。
あなたがアウトサイダーなら、インサイダーに勝つ最高のチャンスは、テストが腐敗しており歪んだエリートが選ばれるような分野であることは明らかだ。でもワナもある。テストが腐敗しているなら、少なくともあなたが生きているうちは、勝利者だとは見なされないだろう。「そんなの気にしないよ」って言うかもね。でも歴史は、テストが腐敗しているような分野で働くのは危険だってことを示唆している。インサイダーには勝てるかもしれないけど、絶対値で見れば、もっとクリーンな分野で働いた方が、いい仕事ができるんじゃないの?
たとえばアートの世界は、おおむね18世紀前半も現在と同様に腐敗していた。軽薄で理想化された。小型犬を抱えた伯爵夫人の肖像の時代だ。シャルダンはそんなものをすべて無視して、日常の事物を彼が見たままに描こうとした。彼は現在では、その時代で最高の画家とされている。それでもなお、公正な基準が奨励されていた時代の画家レオナルド、ベッリーニ、メムリンクよりは下だった。
しかし、すぐ後に公平なコンテストがあるとわかっているなら、腐敗したコンテストでも参加する価値がある。たとえばマーケティングにより多くの費用をつぎこむ会社と競争する価値はある。次のラウンドまで生き残れれば、顧客があなたの実際の製品を比較するからだ。[4]
リスク
公平なテストがある分野でさえ、なおアウトサイダーであることには利点がある。いちばんはっきりしているのは、アウトサイダーには失うものは何もないってことだ。アウトサイダーがリスキーなことをして失敗した。だから? ほとんどの場合、気づかれることさえない。
何かに優秀だと、ある意味、優秀であることによって過小評価される。優秀さはスーツのようなものだ。間違った人々に印象づけ、着る人を制約してしまう。
アウトサイダーは、自分がいる位置のメリットをよく知っておくべきだ。「冒険できる」っていうことはすごく貴重なんだ。凡庸な人も優秀な人も、みんな安全性をあまりに重視しすぎる。誰もバカに見られたくはないだろうが、でもバカなこともできるってことは、すごく重要なんだ。自分の考うることのほとんどが愚かでないなら、たぶん保守的すぎる。その問題を四方八方から批判的に検討していないんだ。
アクトン卿は「才能は最高の作品で、人格は最悪の作品で判断しよう」と言った。たとえば、1冊の素晴らしい本と10冊のまずい本を書いた方が、そこそこの本を11冊、書いた人より、偉大な作家と見なされる。でもいつもは冷静で法律を遵守する市民でも、ときどき誰かを斬って裏庭に埋めているなら悪党だ。
ほとんどすべての人が、まるで「バカな考えを持つとバカになる」とでもいわんばかりに、アイデアが才能ではなく人格を示すと勘違いしている。安全策をとるよう助言する伝統的で重みのある格言がある。「黙っていれば、馬鹿でさえ賢く見える」と旧約聖書(箴言 17章28節)にある。
そりゃまあ、青銅器時代のパレスチナのヤギ飼いには素晴らしいアドバイスだったかもしれない。その時代には保守主義が流行ってたからね。でも時代は変わったんだ。政治問題の中には、まだ旧約聖書から離れないほうが合理的かもしれない。でも現在では、世界は非常に多用な状況がある。物事の変化が早く、また変動幅も大きいので、伝統はガイドとしてあまり役立たなくなった。世界が複雑になればなるほど、バカと思われることを恐れないことがより重要となる。
委任
それでも、人は成功すればするほど、失敗した時に、いや失敗しそうに見えただけでも、多くの批判を浴びることになる。この点で、他の多くのものごとと同じく、成功は自分の枷となる。したがって、アウトサイダーであることの利点を理解するのにいちばんいいのは、インサイダーであることの不利益を知ることかも知れない。
優秀な奴らに人生の不満を質問すれば、最初に言う不満は時間不足だろう。私の友人の一人は、Googleで結構な地位にいるんだが、株式公開のずっと前からそこで働いていた。つまり今では働く必要がないほど金持ちだってことだ。私は彼にこう尋ねた。「もう我慢する必要がないのに、仕事につきもののイライラに耐えられるの? すると彼は物足りなさそうな顔をしながら「まあそんなに不満は無いよ。ただ、メールが山のように来るんだよねぇ」と言った。有名人は、みんなから時間を少しずつ奪われているように感じる。この問題はみんなによく知られているため、有名人のフリをする人は、みんなからひっぱりだこであるフリをする。優秀な人の人生は管理されるようになるが、それは思考によくない。アウトサイダーである大きなメリットの1つは、長く中断されない時間を取れるってことだ。それが私の大学院生活の思い出だ。いつまでも尽きないように思える時間。私はその時間を、論文についてひたすら悩んで、しかし書き始めることができずに過ごした。無名であることは健康食品に似ている。おいしくはないが、たぶんあなたにとって良いんだ。いっぽう、名声は発酵で作られるアルコールに似ている。ある濃度に達してしまうと、それを産みだしたイーストを絶滅させてしまうんだ。
ふつう優秀な者は、管理職になって時間不足を解決する。経営者には働く時間がない。支援もしくは指導すると見なされている若い人々に囲まれる。単純な解決策は、若い人たちに仕事させることだ。あるタイプの問題はこれで解決するだろう。でもどっこい、別のタイプの問題ではそうはいかない。すべてを1人の頭で考えることがよいようなタイプの問題だ。
たとえば、高名なガラス芸術家のDale Chihulyは、本当は27年間、ガラスを吹いていないことが最近、判明した。助手に自分の仕事をまかせていたんだ。だが、視覚芸術のアイデアをいちばん生み出すのは、素材の抵抗だ。だから油絵は水彩画とはぜんぜん違う。理屈では好きな素材でどんな模様も作れる。でも実際には、素材はあなたを操る。だから自分で仕事をしなくなったら、素材から学習することもなくなってしまう。
だから仕事を他人にまかせるほど偉くなった人々に勝ちたければ、1つの方法は、素材に直に触れることだ。芸術ではどうすればいいかははっきりしている。自分でガラスを吹き、自分でフィルムを編集し、自分で演じる。そしてその最中で、偶然や新しいアイデアに細心の注意を払う。この技術は、さまざまな仕事にも同じように一般化できる。あなたがアウトサイダーならば、スケジュールにしばられるな。スケジュールは多くの場合、単に委任する人々につきものの弱点なんだもの。
一人で考えているときに、問題のベスト解を見つけたとわかる一般的な規則はあるだろうか。うん、ふつうは大勢で取り組むようなプロジェクトを、ぜんぶ自分一人で作成してしまう、ってこともできる。ウォズニアックの仕事は古典的な例だ。彼はハードもソフトも、あらゆることを自分でやり、奇跡的な成果を生み出した。彼はアップルIIには、ハードにもソフトにも、ただ1つのバグもないと主張した。
1人が考えて解決すべき問題でよい答えを見つける別の方法は、チョコレート・バーの区切りを見つけることだ。つまり数人にタスクを分割できる場所だ。委任が嫌なら垂直にスライスすることを考えよう。例えば作家と編集者とか、設計士と建築家だ。
仕事を区切るための伝統的でよく行われる方法に、「ツールを作る人と、ツールで何かを作る人に分ける」というものがある。たとえばプログラミング言語とアプリケーションは、ふつうは異なる人々によって書かれる。これは多くのプログラミング言語において、最悪の欠陥の原因となる。私はすべての言語は、C言語とUnixのように、その言語で書く大きなアプリケーションと同時に設計するべきだと思う。
委任に対処する技術は、ビジネスにはつきものなので、よくビジネスに姿を変える。多くの会社は委任を老衰の欠点として忌避するのではなく、成熟の表れとして受け入れる。大きな会社では、たいていソフトウェアのデザインと実装と販売は別々の人が担当する。ベンチャーでは、3つとも1人でする必要があるかもしれない。これはストレスがたまるかもしれないが、それがベンチャーが勝つ理由のひとつだ。顧客のニーズと、それを満たす方法が、どちらも1人の頭の中にあるからだ。
焦点
インサイダーの技術そのものが弱点になることがある。ある人がいったん何かに熟達すると、そればっかりをして過ごすことになりがちだ。この種の集中は、たしかにすごく価値がある。専門家の技術の多くは、誤った道を切り捨てる能力だ。しかし集中には欠点もある。他の分野を学習しないし、新しいアプローチにも気づかない。
アウトサイダーは、このことから勝つ方法を2つ導けるだろう。1つはいろんな仕事をすることだ。狭い領域に集中することで(まだ)多くを得られないなら、大きな網を投げて、いろいろな領域の共通点からできるだけ多くを引き出してみたらどうだろう。上流・下流の仕事も自分でしてしまうことで、仕事を委任してしまう相手と競争できるのと同じで、より幅広い仕事をすることで、専門化する相手と競争できるんだ。たとえば自分で本を書いたら、自分でイラストも描くとか。
専門化する相手と競争する第2の方法は、専門化が何を見落とすか見極めることだ。これは特に新しい物事についてあてはまる。まだ得意なものが何もないなら、うんと新しくて、誰もそれが得意でないような分野に取り組んでみよう。誰もそれが上手でないなら、その分野での有名人もまだいないだろうから、あなたがすべてを独占できるだろう
ふつう新しいメディアの可能性は、過小評価される。誰もまだ可能性を追求していないからだ。デューラーが版画を作るまで、誰も版画をたいして真面目に考えていなかった。版画はちょっとした敬虔な絵を作るものだった。要は15世紀の聖人版のベースボール・カードだ。このメディアで傑作を作ろうとするのは、デューラーの同時代の人にとっては、たとえば現在の一般人にとって、マンガで傑作を書くのと同じように見えたに違いない。
コンピューター界では、新しいメディアではなく、新しいプラットフォームとなる。ミニコン、マイクロプロセッサー、ウェブ・ベースのアプリケーション。最初のうちはいつも、「現実の仕事には適さない」と片付けられる。でも常に誰かが、もう少しがんばってみようと決め、みんなが期待する以上のことができるようになる。だから、将来人々が新しいプラットフォームについて、「うん、広まってきたし安くなったけれど、まだ実用には届かないな」と言っているのを聞いたら、それに飛びつこう。
敷かれたレールの上で働くのは、楽なだけでない。ふつうインサイダーは、自分たちを永続させる既得権を持っている。ある新理論で有名になった教授は、それを乗り越える発見をすることはないだろう。これは、とくに技術と地位を築いただけでなく、資金も持っている会社にあてはまる。成功した会社のアキレス腱は、自分自身の殻を打ち破ることができないってことだ。多くの革新は、何かをより安価な代案に置き換えることなのに、会社はすぐに既存の利益源を奪うことになる、その方法を直視したがらない。
だからアウトサイダーは、がんばって大胆な賭をする投資家のプロジェクトを捜すべきだ。優れた会社が有名になったその何かを作ろうとするのではなく、その名声を奪うような何かを作るために働こう。
本当においしいアプローチは、インサイダーが不可能だと拒絶するようなものではなく、品位がないと無視するようなものだ。たとえばウォズニアックは、アップルIIを設計したあと、最初に勤めていたHPに話をもちかけた。しかしHPはスルーした。その理由の1つは、ウォズニアックはお金を節約するためにモニターにテレビを使ったため、HPはそんなしょぼいものを作るわけにはいかないと考えたせいだ。
より少なく
ウォズニアックは、単にモニターを買う余裕がないからテレビを使った。アウトサイダーは単にフリーなだけでなく、安く、シンプルなものを作ることを強いられる。どちらも成長にはよい投資だ。安いものは速く広まるし、シンプルなものは素早く進化する。
一方、優秀な者は、たいてい大規模なものを作ることを強いられる。物置の代わりに、巨大な美術館を設計するだろう。彼らが大きなものを作ってしまう理由は、単に大きなものを作ることができるからだ。先ほどのたとえ話の小説家のように、それらはそういうことができることが自慢なのだ。さらに彼らは、大きなプロジェクトは、単に大きいというだけで、みんなの印象に残ると知っている。物置はどんなに美しくても、簡単に無視される。一部は失笑するかもしれない。逆に、どんなに嫌いであっても、巨大な博物館に対して失笑することはないだろう。最終的には大勢の部下がいるために、皆に仕事がいきわたるようなプロジェクトを選ぶ必要がある。
アウトサイダーにはそんなことがない。小さなものを作ることができるし、小さいものを作るのはとても面白い。大きなものはたいていバグがあるが、小さなものは完全にできる。しかも小さなものには、そんな合理的な説明をも越える魔力がある。子供は誰でも知っているが、小さなものはより個性的なんだ。
さらに、小さいものを作るのは楽しい。好きなことができ、委員会の許可もいらない。そしてたぶんいちばん重要なのは、小さなものは素速く作れるってことだ。完成した仕事を思い浮かべるのは、夕食の料理の匂いをかぐようなものだ。がんばれば、もしかしたら一晩でできるかもしれない。
さらに、小さなものを作るのは、いい勉強になる。ひとつのプロジェクトにつき一つだけ大事なことが学べる。(次はこんなヘマはしないぞ・・・)プロジェクトを次々と回転させるほど、あなたも次々と進化するだろう。
簡素な素材には、小規模であることと同様の魅力がある。またさらに、より少なさを追求する挑戦になる。デザイナーは負けず嫌いなので、「ゲーム」という言葉を聞き逃すことが出来ない。二軍選手が一軍のゲームでプレイするようなもので、引き分けに持ち込めれば勝ったようなものだ。すごく逆説的だが、資源が少ない方が、デザイナーの創作の喜びが補われるため、かえってよい結果を生む場合がある。[5]
だからあなたがアウトサイダーなら、小さく安いものを作るようにしよう。そのテの仕事の楽しみと単純性を大事にして欲しい。いつかは失われ、懐かしく思うものだから。
責任
年を取って有名になると、若くて無名のときに比べ、何を失ってしまうのだろうか。人々が最も恋しく思うのは、無責任でいられたことだ。
責任は優秀さの職業病だ。原則としては、年をとっても太らずに済むのと同様、優秀でも責任なしでいられる。でもほとんどの場合は不可能だ。私は時々、責任は罠みたいなもので、最も正しい対応法はそれから逃げ回ることだと思う。しかし不注意であれば、どっちにしろ責任によって制約される。
もちろんアウトサイダーであろうと制約される。たとえば経済的な制約だ。だが責任以外の制約は制約の仕方が違う。責任はあなたをどう制約するのだろうか。最悪なのは、責任によって、自分の本当の仕事に注目されずに済んでしまうってことだ。ちょうど、あたかも仕事をしているように見える作業が最も危険な種類の後回しになるのと同じで、責任の危険は、それに追われてまる一日過ごしても、公園のベンチでぼーっとしていた時に感じるような危機感を感じなくて済むってことだ。
アウトサイダーは、自分の後回しに気づかされるという大きな痛みがある。でもこれは、本当はいいことなんだ。いい匂いをかぐとお腹がすくのと同じで、少なくとも仕事に近いと気づくことができる。
アウトサイダーであるということは、何かをすることから、単に一歩、離れているにすぎない。たしかに大きな一歩で、ほとんどの人は踏み出さないんだが、でも、たったの一歩なんだ。もし始める熱意を奮い起こすことができれば、ほとんどのインサイダーに匹敵するものがいないほどの強い感情と高い質でプロジェクトに取り組める。インサイダーの仕事は、責任と期待がつきまとうため、義務になってしまう。それは若かったころほど純粋ではなくなっている。
鋤につながれている牛ではなく、散歩に連れられている犬のように働こう。それが年を取って有名になった人が失ってしまうものなんだ。
観客
多くのアウトサイダーは、正反対のことをする、という間違いを犯す。優秀な者を褒めそやし、彼らの間違いさえコピーしてしまう。コピーは学習するにはいい方法だが、正しいものをコピーしよう。私は大学にいたとき、有名な教授の尊大な話し方を真似た。でもそれは、その教授を有名にしたものではなかった。むしろそれは欠点で、彼らの優秀さを減じてしまうものだった。それをコピーすることは、金持ちのフリをするために、通風持ちであるかのように振る舞うのと同じだ。
優秀なもののもつ特徴のうちの半分は、本当は欠点だ。それらをコピーすることは、時間の無駄であるだけでなく、しばしばモデルが愚かに見えるようになってしまう。
インサイダーであることの真のメリットは何だろうか? 最も大きな利点は観客だ。アウトサイダーにとって、インサイダーのいちばんの利点は、好きなことを自由にできる資金に見える。でも莫大な遺産を相続した人が、あまり人生の助けにならないのと同じで、観客ほどには役だっていない。観客はあなたから仕事を引き出すんだ。
インサイダーのメリットは観客だという私の説が正しいなら、私たちはわくわくするような時代にいる。インターネットに多くの流動的な観客があらわれたのは、ここ10年くらいだからだ。アウトサイダーは、観客がわりの数人の賢い友達でガマンする必要がなくなった。今やインターネットのおかげで、アウトサイダーはホンモノの観客を相手に成長できるようになったんだ。これは変人にとって大きな朗報だ。アウトサイダーの利点を保ったまま、最近までエリートの特権だった利益をますます吸収できるようになったからだ。
10年以上前にすでにウェブはあったが、私たちはまさに民主化がはじまる過程を目の当たりにしている。アウトサイダーは、まだ観客を奪う方法を学んでいる最中だ。でももっと重要なのは、観客もまた奪われる方法を学んでいるということだ。観客はディープなブロガーはジャーナリストよりも掘り下げることができ、民主主義的なニュース・サイトは、編集者が管理する一面記事よりもずっと興味深く、ウェブカメラを持つ子供たちの集団が、大量生産されるコメディよりも面白いと悟りはじめた。
マスコミの大企業は、大衆がYouTubeに著作権で保護されたものを投稿すると心配するべきじゃない。人々がYouTubeに自分たちのコンテンツを投稿してくれて、それを見てくれる人がいるかを心配すべきなのだ。
ハック
もし変人の力を1つの文に縮めろと言われたなら、「何かをハックしようと試すこと」と言うだろう。この言葉は、私が今までに述べたほとんどの内容を含んでいる。何かをハックすることは、何をするかを、上司のビジョンを実行する部下としてではなく、自分自身でやりながら決めることなんだ。それは、適当な材料でてっとり早く作られるために、きれいな結果にはならないだろう、ということも暗に示唆する。動くかもしれないが、優秀な人が自分の作品と認めたいようなものではない。ハックによって問題をなんとか解決できるかもしれないし、ぜんぜん問題を解決できないかもしれない。でも途中で何か別のものを発見するだろう。それでいいんだ。最初のバージョンは、何かそのものではなく、その道しるべなんだから。きれいな服を着た、泥の中を進む勇気のないインサイダーは、向こう岸の堅い地面にたどりつくことはないだろう。
「試す」って言葉が特に重要だ。私はこの点で「『試す』などない」と言ったヨーダに反対だ。「試す」はアリだ。それは、失敗しても罰がないってことだ。義務ではなく好奇心で動くってことだ。後回しも仕事を避けるための後回しではなく、好きなことをやるための後回しになるだろう。そしてそれをしている時、いい気分になるだろう。仕事に想像力が必要な仕事ほど、ますますいい仕事ができる。なぜなら人々は幸せなとき、さらにいいアイデアが浮かぶからだ。
もし私が20代に戻ってやり直せるなら、何かをハックする時間を、もっと増やしただろう。その世代の多くの人と同じく、私もまた、自分が何をすべきかを悩んで多くの時間をムダにした。さらに私は素材作りにもある程度の時間を費やした。悩む時間を減らし、もっとなにかを作るべきだったんだ。何をすべきか分からないなら、何でもいいから作れ。
レイモンド・チャンドラーの推理作家へのアドバイスは次のようなものだった。「自分のしていることに迷ったら、ドアから銃を手にした男がやって来ると思え」そしてチャンドラーは自分の言葉に従った。彼の本を読む限り、チャンドラーはしばしば自分のしていることに迷ったようだ。そして生み出したものは、ときどきお粗末だったが、退屈ではなかった。実生活では、本の世界でも同じだが、アクションは軽視される。
幸運なことに、ハックすることができる事は増え続けている。たとえば50年前の人々は、1人の人間が映画をなんとか作れることに驚くだろう。
不適当
もし大きなポイントを稼ぎたければ、注目すべき分野は、変人の中のさらに変人だ。最近になってインサイダーがようやく視野に入れたような分野だ。それはあまりにも危険か、もしくは徹底的に調べようとするインサイダーがほとんどいなかったために、最も重要なプロジェクトが未完成だと分かっているような領域だ。
そしてそれが、私が最近、ほとんどの時間をエッセイに費やしている理由だ。かつてエッセイを書くことは、出版できる人々に制限されていた。原則としては誰でもエッセイを書いて、友達にそれを読ませることもできた。でも現実にはそれでは誰もエッセイを書かなかった。[6] 彫刻家が板の抵抗を必要とするのと同じで、エッセイストには観客の抵抗が必要なんだ。
数年前まで、エッセイを書くことは究極のインサイダーによるゲームだった。ある分野の専門家は、その分野に関してのエッセイを公表しても良かったが、一般的なトピックを書いてよい集団は、ニューヨークの正しい派閥に属す8人程度だった。現在ではこの分野に革命が起き、特に驚くことでもないが、まだまだ開発されていないテーマがあることがわかった。まだ書かれていない、とてもたくさんのエッセイがある。それらは概して危険な話題だ。インサイダーは母の愛とアップルパイといった話題は、ほとんど書き尽くしてしまったからだ。
このことから私は、「自分が現在、正しいことをしているかどうか決める方法」として提案するものを生み出した。資格がないとか、変なことをしていると人々が苦情を言うなら、あなたは正しい。人々が苦情を言っているなら、あなたは座っているのではなく、何かをしているからで、それは最初の一歩だ。また、もし人々がそのようなつまらない苦情しか言えないなら、恐らくあなたは良いことをしているんだ。
もし人々が「あなたが作ったものが動かない」と苦情を言っているのなら、それは問題だ。でも、あなたを非難する最悪の材料が、あなたがアウトサイダーであるってだけなら、それ以外のすべての点ではあなたは成功したことを示している。誰かに「資格がない」と指摘するのは、人種差別に訴えるのと同じくらいの悪あがきだ。それは単に「私たちは、あんたみたいなのが嫌いだ」という発言の正当化にすぎない。
でも一番いいのは、「変なことをしている」とみんなが言ったときだ。私は人生でずっとこの言葉を言われてきた。また、私は最近、それは実はホーミング・ビーコンの音だとわかってきた。「変な」は無意味な批判だ。それは単に「私はそれが好きじゃない」の形容詞にすぎない。
だからそれは、変人にとって最高のゴールであるべきだと私は思う。変になろう。人々にそう言われたら、あなたは光り輝いている。ついでに言えば、そう言った奴らは終わってる。
注釈
[1] アップル創業初期の歴史は、ジェシカ・リヴィングストンの近刊「創立者の仕事」Apress(2006年)におけるスティーブ・ウォズニアックとのインタビューを参考にした。
[2] ふつう通俗的なイメージというものは、 現実の姿の数十年遅れのものだ。現在の誤解された芸術家像は「チェーン・スモーカーでアル中、大きなうす汚いキャンバスに情熱を注ぎ、その絵を見て俗物が「ありゃ芸術じゃないね」と言う・・・といったものではない。現在では俗物も、壁に掛けられたものはすべて芸術とみなすよう訓練されているのだ。現代の誤解されたアーティスト像は、コーヒー中毒の極端な菜食主義者のマンガ家で、人々が「なんか日曜紙で似たようなの見たなあ」と思い「ありゃ芸術じゃないね」というものである。
[3] 「客観的なテストがない状態でのランク決定」というのは、政治の定義としてマジで相当にいいと思う。
[4] 高校では、自分の未来はすべて、どこの大学に行くかにかかっていると信じこまされる。でもその効果は2~3年で期限が切れるとわかる。20代半ばになれば、あなたが認めてもらいたがっている人物は、あなたがどの学校にいたかではなく、その学校で何をしたかによって判断している。
[5] 管理者はたぶんびっくりする。どうして私はこんな奇跡を起こすことが出来るんだろうか? どうすればもっと少ない支払いで、人々を私のために働かせることができるだろうか? 残念だが、たぶん制約は自らに課さなければならない。もっと支出を少なくしたいなら、高潔にも何も食べないで、飢死してしまうだろう。
[6] 出版の可能性なしで、大多数の人がエッセイを書くのにいちばん近いのは、日記を書くことだ。でも私は、日記はエッセイほどテーマを深く掘り下げないと思う。日記という名前が示すとおり、2週間もかけて何度も書き直したりしない。
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